ジョン・ヴァーリイ/冬川亘・大野万紀訳
 『残像』 解説

 大野万紀

 ハヤカワ文庫SF
 昭和55年2月29日発行
 (株)早川書房
The Persistence of Vision by John Varley (1978)


 一九七〇年代後半に現われたアメリカSF界の新人王″、ジョン・ヴァーリイの、第一短篇集である。七八年度ヒューゴー賞/ネビュラ賞ノベラ部門受賞作の「残像」をはじめ、七四年から七八年までの、彼の代表的な短篇がほぼ網羅されている。

 本当のことをいえば、この短篇集にこれ以上解説など必要ない。「序文」でアルジス・バドリスがいっているとおり、ヴァーリイの小説は、決して〃解説やらなにやら付かないと体裁がつかないような〃しろものではないからだ。おまけに、すでに長篇『へびつかい座ホットライン』(海外SFノヴェルズ)が翻訳された後で、彼の経歴であるとか、書評での反響とかも、浅倉久志氏の「訳者あとがき」に、実に要領よくまとめられている(そのうえ、浅倉氏自身の、ヴアーリイとの〈最初の遭遇{ファースト・コンタクト}〉についても書かれている)。これ以上、何をつけ加えることがあるだろうか? まあ、全然ないということもないけれど……。
 たとえば、これはアメリカに行っているぼくの友人が、実際にコンベンションで彼と出会って教えてくれたことだが、ヴァーリイは今、仕事のやり過ぎで首を痛め、ギプスをはめているのだそうだ(七九年十一月現在の話です)。これは、長篇の〆切りが迫っているというのに、短篇が映画化されるという話が入って、ハリウッドへ何度も行ったり来たりしたので、何日間かぶっつづけでタイプライターの前に座り、やっと書き終えてバタッとベッドに倒れ込んだところ、翌朝目が覚めたら身動きできなくなっていた、というもの。何でもこの映画の特殊効果にはダグラス・トランプルの名前があがっており、フィルムのラストの方は、光速を越えた人間の体験を表現するライト・ショウになるとか(まるっきり『二〇〇一年宇宙の旅』ですな)。また、別の情報によると、この映画の原形となる短篇とは、本書に収録されている「空襲」なのだそうだ。
 こんな話もある。ヴァーリイが生まれ育ったのはテキサスの田舎町だったが、先年ウィスコンシンで開かれたコンベンションへ出かけ、そこで生まれて初めて人がスキーをしているのを実際に見た、とか……。
 ヴァーリイは親しい人からはふつうミドル・ネームをとって〃ハープ〃と呼ばれており(そういえば、「空襲」をアイザック・アシモフSFマガジン誌に書いた時のペンネームが、ハーブ・ポエムだった)、SF界に入ってから〃ジョン〃と呼ばれるのが、何だか落ち着かないのだそうだ、とか……。
 どうでもいい情報? そう、どうでもいい情報だ。しかし、これ以上、何をつけ加えることがあるのだろう?
〈八世界{エイト・ワールド}シリーズ〉の概要? いや、本当はそれも必要ない。読めば明らかだからだ。そもそもぼくがヴァーリイを読みはじめたころには、〈八世界{エイト・ワールド}〉なんて言葉もなかった。これはヴァーリイが七七年四月号のギャラクシイ誌で、読者からの質問に答えて使ったのが最初だと思う。何度か引用したのでおなじみと思うが、もう一度その要旨を引用してみよう――

〈八世界{エイト・ワールド}シリーズ〉は、二〇五〇年の〈地球侵略{オキュペーション・オブ・アース}〉を基点とし、その三、四百年後の時代を主な舞台としています。登場する人々はすべて、侵略当時影響を受けることのなかった月植民地の、千人あまりの人々の子孫なのです……。
 また、〈八世界{エイト・ワールド}〉とは、水星、金星、月{ルナ}、火星、タイタン、オベロン、トリトン、そして冥王星をさしています……。

 これで充分だ。あと、背景として〈へびつかい座ホットライン〉の存在を指摘しておけば、〈八世界{エイト・ワールド}〉に関してすべてを語ったことになるだろう。彼には同じタイム・ラインに属する、侵略前の月を舞台としたミステリ・タッチの作品群(たとえば、邦訳された「バービーはなぜ殺される」SF宝石七九年八月号など)もあるが、それを〈八世界{エイト・ワールド}〉に含める必然性はない。〈八世界{エイト・ワールド}〉は、ハインラインに代表されるような、従来の意味での〈未来史〉ではないからだ。
 このあたり実は、ぼくの考えと、バドリスの「序文」とが、必ずしも一致しないところである。ヴァーリイの〈八世界{エイト・ワールド}〉は、「序文」で述べられているような、現在から外挿した線型{リニア}な未来世界を描いたものじゃない、と思うからだ。〈八世界{エイト・ワールド}〉には年表も地図も必要ない。ただふたつのエポック、すなわち、いまだ書かれていないインベーダーによる〈地球侵略〉と、『へびつかい座ホットライン』で予言された〈八世界{エイト・ワールド}〉の滅亡を除けば。
 この二つこそ、〈八世界{エイト・ワールド}〉の未来史(という言葉をつかうなら)の特異点であり、始点と終点なのだ。これによって〈八世界{エイト・ワールド}〉の世界は明白に限定され、定義され得る。
 このことがない作品は、たとえ形式上〈八世界{エイト・ワールド}〉の時間線につながり得るものであっても、〈八世界{エイト・ワールド}〉に含めることはできない。現在からの一貫した年表をつくることは可能かもしれないが、無意味なことだ。ヴァーリイは決して未来史それ自体を目的としているのではないのだから。
 したがって、本書に収録された個々の作品が〈八世界{エイト・ワールド}〉に含まれるかどうかと問うのは、あまり重要でないことになる。つまり、含まれるかどうかあいまいなものを、わざわざ含める必然性などない、ということだ。
 だんだん解説″ふうになってきた。バドリスには笑われるかもしれないが、無用な解説をもう少しつづけるとしよう。もちろんここで述べるのは、ぼく個人のたよりない感想と解釈にすぎないのであって、それを誰にも押しつけるつもりはない。まずあなたの目で、作品の方を先に読んでいただきたい。話はそれからだ。

 読み終えた? では、つづけよう。あなたの印象はどうだったろう? 「カンザスの幽霊」でまったく新しいミステリの感覚を味わい、「空襲」に身ぶるいし、「逆行の夏」の水銀洞で遊び、「ブラックホール通過」で深太陽系の孤独を感じ、「火星の王たちの館にて」にあっと驚ろき、「鉢の底」で金星の平べったい太陽をカワウソと眺め、「歌えや踊れ」では本物のスターダンスを楽しみ、「汝、コンピューターの夢」で現実感覚が不安になり、そして「残像」に考えこまれただろうか(これで全部だったかな)? もちろんこれは半分冗談だけど、もし本当にそうだったら良かったと思う。
 ぼくはそうだった。

 ぼくが初めてヴァーリイを読んだのは、まだ大学生活を謳歌していた五年ほど前のことで、そして一読、SFのセンス・オブ・ワンダーはまだ滅びてない! と飛びあがったのだった。それは水星や金星の最新の知識をベースにして、細部に至るまでSF的美意識で満たされた描写と、クローンやホットライン、性転換といった従来からあるアイデアの、かなり革命的といっていい扱い方からきていた。そこでぼくは、これを新しいハードSFとして、みんなにふれまわった。これでかなり迷惑を受けた人があるに違いない。今でも、一種のハードSF――ニュー・ハードSF――だと思っている。しかし、常識的な意味ではハードSFといえない。いや、むしろいわない方がいいだろう。
 というのも、ヴァーリイの作品における科学性は、あくまでも背景にあるのであって、そこに出てくる未来技術の数々は、現在の科学から直接導かれるものではないからだ。背景としての水星や金星は、現在の科学知識でわかる限り厳密に描かれている。しかし〈ナル・フィールド〉のようなものがどうして可能なのか、ヴァーリイはその原理を説明しようともしない。実際これらほ人類の技術でなく、〈ホットライン〉から与えられたものなのだ。
 ハードSF中心の雑誌であるアナログ誌に彼がなかなか載せてもらえなかったのも、そのせいだろう。彼は本書に収録されているような作品をまずアナログ誌へ送っていた(原稿料が一番いいからだ)。しかし、それらはすべて送り返された。その中にはネビュラ賞候補作の「鉢の底」も含まれていた。かわりに掲載されたのは、同じく金星を舞台にした、きわめて技術者的発想による別の作家の作品だった。
 だから、少なくともアナログ誌が認めるような〃ハードSF〃ではないのである(そのアナログ誌も、七九年から、ヴァーリイの長篇第二作TITANを連載したのだが)。もっともぼくは、彼の作品の科学性はアナログの凡百の〃ハードSF〃より、ずっと高いと思っているのだが。

 ぼくがヴァーリイに引きつけられた理由はそれだけじゃない。もっと大きな、ばく然とした理由は、それが読んで心地良かった、ということだ。それはぼくのメンタリティにぴったりと合っていた。同時代性、といってもいい。ここにぼくと同じ時代を生き、時代に対して同じような感受性をもった人間が、今SFを書いている、という感覚。ジョン・クルートのいう〃一九七七年の味わい〃だ(ばくの場合は一九七五年だったが)。それは、ヴァーリイのSFの多くが、実はごくささやかな日常性を描いたものであることに起因している。現代の技術至上文明や、そこから展望される未来に対して、絶望的なほどの悲観論をもちながら(それは『へびつかい座ホットライン』や「残像」にはっきりと現われている)、にもかかわらず、日常的なレベルで見れば、人々はささやかなハッピー・エンドを求めてせいいっぱい生きてゆくのだ。たとえどんな世界であろうとも。
 本書に含まれているすべての作品が、何らかの意味でハッピー・エンドになっていることに注目しよう。それは登場人物たちに対するヴァーリイの限りない優しさだ。もしかしたら弱点なのかもしれない。だが逆に、それだけ彼の絶望感が深いともいえるのだ。
〈八世界{エイト・ワールド}〉について考えてみよう。『へびつかい座ホットライン』を悲観論で書かれた『幼年期の終り』だと理解するならば、〈八世界{エイト・ワールド}〉の全体が〈ニュー・アテネ〉であり、失敗に終る技術文明の袋小路なのだとわかるだろう。あたかも技術万能の社会のように描かれた〈八世界{エイト・ワールド}〉は、実は成長することのない停滞した社会なのである。人々の住むのが閉鎖エコロジーを守らなければならないくず惑星であることと、すべての新しい発見が〈ホットライン〉からのものであることを考えれば、このことが理解できよう。ある意味で〈八世界{エイト・ワールド}〉とは、最初の侵略と最後の侵略の間にある、つかの間のモラトリアム期間にすぎないのである。だが、この状況設定は、現在のわれわれのおかれている状況と共鳴して、一種のエコーを生じないだろうか? 彼らの日常性はわれわれのものとまったく違っている(そのシステマティックに構成されたSF的論理の精緻さは驚くばかりだ)。にもかかわらず、そこには七〇年代の日常性が(さらに、いってみれば、夢破れたもと物理学徒、もとヒッピーの、リベラルなモラルと生活感が)色濃く影を落としているのである。
 心地良いのは良くないことでしょうか?
〈八世界{エイト・ワールド}〉以外の作品についても、事情は変わらない。むしろ個々に完結するぶんだけ、よけいに印象深く感じられるだろう。
 もちろん〈八世界{エイト・ワールド}〉の作品の中には、舞台設定を利用して書かれただけの、ふつうのアイデア・ストーリー(それがダメだというのじゃない)もある。だが、そこにもこのオーラが存在しているのだ。
 たとえふつうのアイデア・ストーリーを書いても、単なるアイデア・ストーリーに見えないところが、ヴァーリイの魔力なのかもしれない。ぼくはその魔力にとりつかれてしまっているのだ。ぼくだけじゃなく、アメリカの多くのファン、批評家、作家たちも。そして、あなたもそうであればいいな、と思う。

 と、とりとめもなく書いてきたが、このあたりでおしまいにしよう。やはり〃解説〃など無用だったようだ。
 ヴァーリイは現在、前述のTITANを第一部とする長篇三部作を書いている。〈八世界{エイト・ワールド}〉とは別のものである。これから先も〈八世界{エイト・ワールド}〉を舞台にした作品は書かれるかもしれないが、おそらく『へびつかい座ホットライン』によって〈八世界{エイト・ワールド}〉にはケリがついたのだ。書かなければならないとすれば、侵略それ自体を扱った作品だが、たぶん発表されることはないだろう。
 実をいうと、この〈地球侵略〉の物語こそ、ヴァーリイが最初に書いた(そして日の目を見なかった)長篇なのである。彼はそれを分解し、そこから発展するであろう社会をつくりあげ、いくつかの短篇として発表したのだった。それが、この短篇集におさめられた〈八世界{エイト・ワールド}〉の物語なのである。
 最後に、本書におさめられた作品の、発表年と初出をしるしておこう――

カンザスの幽霊(1976)ギャラクシイ誌
七六年度ヒューゴー賞ノミネート
七六年度ローカス賞ノミネート
空襲(1977)アイザック・アシモフSFマガジン誌
七七年度ネビュラ賞短篇部門二席
七七年度ヒューゴー賞短篇部門二席
七七年度ローカス賞ノミネート
逆行の夏(1974) ファンタジイ&サイエンス・フィクション(F&SF)誌
七五年度ネビュラ賞ノミネート
七五年度ローカス賞ノミネート
ブラックホール通過(1975)F&SF誌
七五年度ローカス賞ノミネート
火星の王たちの館にて(1976)F&SF誌
七七年度ヒューゴー貫ノベラ部門二席
七七年度ローカス賞ノミネート
鉢の底(1975)F&SF誌
七六年度ネビュラ賞ノベレット部門二席
七五年度ローカス賞ノミネート
歌えや踊れ(1976)ギャラクシイ誌
七六年度ヒューゴー賞ノミネート
七六年度ローカス賞ノミネート
汝、コンピューターの夢(1976)ギャラクシイ誌
七六年度ローカス賞ノミネート
残像(1978)F&SF誌
七八年度ネビュラ賞ノベラ部門受賞
七八年度ヒューゴー賞ノベラ部門受賞
七八年度ローカス賞ノベラ部門受賞

1980年2月


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