SFコンベンションの楽しみ

 大野万紀

 「SFオンライン」97年9月号掲載
 1997年9月18日発行


 はい、私が16年前に新婚旅行に名を借りて英国で開かれたSFコンベンションに参加し、あまつさえ、それを「SFマガジン」のスキャナーのネタに使った大野万紀(PBC00527@niftyserve.or.jp)です。SFオンラインでは初登場だと思いますが、これからもどうぞよろしく。

 さて、SFコンベンションについての思い出を、ということなのですが……。

 先月、第36回の日本SF大会、広島で開かれた「あきこん」に参加して来ました。

 いつものようにディーラーズルームをうろついていると、ふと目に留まったものがあります。あ、ディーラーズルームというのは、SFの同人誌=ファンジンなどを販売するコーナーのことですね。ここに来るといつでも古くからの知り合いに出会うことができるので、SF大会といえばまず第一に顔を出すようにしています。

 ちなみに、SFコンベンションの楽しみといえば、一番大きいのがこの知り合いと出会うということですね。

 初めて参加した時には、何といっても日頃同じ趣味の仲間が身近にいないところが、ここに来れば右を向いても左を向いてもSFの話ができるSFファンばかりだ、ということがすごく嬉しく、ある種の開放感にうきうきとした気分になれます。それからもちろん、作家や翻訳家、漫画家の先生方の生身で歩いている姿が見える、そればかりか話が聞ける、あるいは議論をふっかけたりもできるということや、シリアスな討論からファニッシュなお祭り騒ぎまでの様々な企画に参加できるということが楽しいわけですが、何度かコンベンションに参加して常連となってくると、久々に遠方の知り合いと出会ってはバカ話の花を咲かせ、企画は無視して勝手に飲みに行くといった、コンベンションの場を借りての仲間同士のつきあいが楽しみの中心となってきます。いわゆる(悪くいえば)大会ゴロとなっていくわけです。

 これはこれで反省すべき点も多いのですが、ただSFのコンベンションというのはそういうものも全て肯定した上で成り立つものだと思うのです。だから、たまに大会のスタッフが、何か一方的なコンセプトを打ち出して、すべての参加者をその方向性の中にからめ取ろうとするようなコンベンションがあると(必ずしもそれを否定するわけではないのですが)何か違和感を感じてしまうのです。そういうものと自由さとを両立させている例もあります。例えばSFセミナーや京都SFフェスティバルなどでは、テーマに沿った真面目な講演会と、何でもありの合宿とを組み合わせた形となっています。それで、えーと、何を書いているんだっけ……。

 そう「あきこん」のディーラーズルームをぶらぶらしていると、その一角に第1回「メグコン」以来の日本SF大会のプログラムブックがずらりと展示してあったのです。ぼく自身がスタッフもやった「シンコン」、なつかしい「ダイコン」、「トーコン」、横浜の、金沢の、浜松の大会……。ぺらぺらのパンフみたいなものから、りっぱなカラー印刷の豪華本まで、36冊のプログラムブックたち。でも、そこでぼくがショックを受けたのは、日本SF大会の36年の歴史の中で、ぼくが参加するようになってから後の方が、ずっと長いのだという事実でした(ちなみにぼくが最初に参加した大会は第13回、京都で開かれた「ミヤコン」です)。これって単にぼくが歳をとったっていうだけのことなのですが、ことSFコンベンションに関しては、ちっともそんな気がしていなかったのですね。

 つまり、SFコンベンションの常連になると、時は止まってしまうのです。SFが進化し、新たなファンがやってきて、時代が変わっていこうとも、今やオールドファンとなった常連たちにとって、それは何でもないことなのです。そこには時代を越えたSFの永遠の夏があります。実社会ではそれなりに年相応の生活を送っているはずの、いい年したおじさんやおばさんたちが、ここでは若いファンたちと全く同じレベルに戻って、日常世界ではまったく非常識と思われるようなバカ話に笑い興じています。

 何年か前に「無限に続く文化祭前夜」というコンセプトが、肯定的にも否定的にも語られたことがありました。アマチュアの手によって作られるSFコンベンションには、確かにそういう雰囲気があります。そこへ集まるSFファンたちは、決して単なる観客ではなく、その熱気を共有する仲間たちです。SFコンベンションがこのようなものとして存続する限り、いくつになってもファンたちはそこへ集まり、SFの夏は、その特別な時間の中で、いつまでも終わりなく続いていくことでしょう。

 1997年9月


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